泡沫(うたかた)| 篠原 勝之 展
2025 年10 月4 日( 土) ~ 12 月7 日( 日)
●Opening Reception :10/4(土)17:00~19:00
●Talk Event : 11/30(日)15:00~
(定員30 名/参加費2,000 円)
『斧の安藤榮作× 泥の篠原勝之の雑談』
(*要予約)
*イベント参加申込:メールにて要予約(info@kyoto-ba.jp)
申込代表者名と参加人数をお知らせください。
協力: 椿グループ
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ノーコーソクから生還したら〈80〉が目の前にブラ下がっていた。
長かったオレの鉄のジダイの終わりを予感して、作業場の水を抜いた池の底泥を素手で掬った。咄嗟に意味不明な行動にでる質ではあった。泥を握っているのか泥の手袋を嵌めているのか、まとわりつく泥との境界は曖昧だった。
泥をベチベチと右掌へ、左掌へ。独りキャッチボールの果てに出来た泥まんじゅうがあまりにも丸いから、テッペンに親指を突き立てた。泥団子に消えた親指をゆっくり引き抜くと、空っぽの孔が現れた。充たしていたモノがそっくり消え〈不在〉の出現である。
鉄の硬さに接するたびに自分の輪郭がクッキリしたけど、土のたおやかさは輪郭をボンヤリさせ、オレを地の果てまで拡げるではないか。空っぽに突っ込んだ親指の腹で粘土を圧し、外側から人差し指と中指で支えながら押し広げていく。
自在である。
オレが40,50代に屋外に常設した鉄の作品のいくつかは錆びて老朽化し、解体されたり、風化したり、それぞれの寿命を迎える時期に来ていた。永遠に在るモノなど何ひとつない。
火遊びの小さな火種が春一番に煽られ、ひと山を黒焦げにしたガキの記憶は、やがて鉄を溶かす火に風の量を加減して還元や酸化の火の力を覚えた。
やっぱし火と風の力だ。ジジイになって迎えた土のジダイ。
手捏ねした土の空っぽを1240度の火力で焼いている泡沫である。
KUMA
「静謐なバサラの手の宇宙」
クマさんこと篠原勝之という人は、私が岡本太郎に出会う前に「人生=芸術」「生活=芸術」ということを最初に教えてくれた人かも知れない。
18 歳大学1 年生の頃。劇団・東京乾電池の研修生だった演劇少年に唐十郎の状況劇場に誘われる。青山墓地に行き、そこで着流しを着た坊主頭の巨漢が赤テントの中から酔っ払いを道端に摘み出していた。これがクマさんこと篠原勝之との出会いだ。クマさんは状況劇場のポスターや舞台美術そして用心棒を担当。そのポスターは唐十郎特有の戯曲のロマンチズムを繊細な色彩と線で描いていた。酔っ払いを追い出す豪胆な振る舞いと相反するデリケートな作風。そして彼の著作「人生はデーヤモンド」との出会い。その後、テレビなどのメディアで篠原勝之の姿を多く見かけるように。
篠原勝之は「芸術」を「ゲージツ」と呼称して芸術の堅苦しい枠組みから逸脱し続けていた人でもあった。「人生はデーヤモンド」の中で、米の研ぎ方を「手刀で切るように研げ」と。彼は生活、生き方、日常の価値観を常識に囚われず、大胆で自由に振る舞っていた。まるで「バサラ」のように。ところがこの「バサラ」が時々編み物をしているというではないか。
以前、彼は鉄の物質的なイマージュで大きな作品を制作していた。病がキッカケで鉄の作品から土の( 泥の) 作品へ移行する。
篠原勝之は手で鉄やガラスの大作を作った。その彼の手が現在は土塊を捏ねて空( くう) としての器を作っている。かつて縄文人たちが自分の手で土をいじって土器や土偶を作ったように。
京都場館長 仲野泰生( 元川崎市岡本太郎美術館学芸員)
<作家プロフィール>
◾️篠原勝之/KUMA
1942 年、
札幌に生まれ室蘭で育つ。画家を目指し17 歳で家出、上京。
武蔵野美術大学を中退し、グラフィックデザイナーとして就職。
1969 年~
日雇いの肉体労働をしながら挿絵画家、絵本作家として棲息。
1973 年、
「状況劇場」主宰・唐十郎と出逢い、1979 年までポスター、舞台美術を担当
1981 年、
エッセイ「人生はデーヤモンド」で注目を集め、テレビ番組などにも出演する。
1985 年、
ビルの解体現場で目撃した剥き出しの鉄に突き動かされ、スクラップ鉄を使った作品を精力的に制作。「鉄のゲージツ家」を宣言する。
1995 年、
山梨県北杜市にキューポラ炉を備えた作業場を構え、鉄やガラスの鋳造も始める。以降、火を媒介とする物質をメインに、風・光・土・水など自然のエネルギーに呼応するダイナミックな造形を国内各地、モンゴル、サハラ砂漠などで制作した。著作では、2009 年「走れUMI」で小学館児童出版文化賞、2015 年「骨風」で泉鏡花文学賞受賞。
2019 年、
手捏ねの盌「空っぽ」を焼き始める。
2021 年、
奈良に移住。